
そしてようやく横浜ろう学校に入学し、私も毎日、せっせと子供と一緒に学校に行き、一年生になったつもりで勉強した。
健聴者には優しくできる言葉が、ろう児にはなかなかできません。お母さんの「か」が特に難しくて出てきません。光二が、「お母さん」と言ったとき本当に嬉しくて涙が出てきた。
小学校三年のころより、「さて、この子の一生の仕事は何がよいか。手先が器用だから歯医者の技工士にするか。親戚に歯医者がいるのでそこへ頼んでみよう」と考えた。それとなく保土ケ谷の叔父に当たってみたら、技工士よりも理容師の方がよいと言われた。
そのころ、主人のお母さんと弟妹たちは、「クリーニングがよいのではないか」という意見であった。
それぞれ違う意見を持っており、それもみな光二の将来を思う気持ちで、一長一短のある意見だった。技工士、クリーニング、理容師、高校を卒業させて一般のサラリーマン鎌倉彫りなど彫刻師など。私たちは理容師にすることにした。
ところが、横浜ろう学校の先生方は、「理容師になるには国家試験に合格しないと、一人前になれないし開業もできない」と言われた。そこで理容科のある平塚ろう学校に転校し、本格的に打ち込むことになった。
その間光二は、「僕もお兄ちゃんのように高校、大学へ進んでネクタイをつけて会社に行きたい」と言った。可哀相だがどうしようもない。「そのかわり、食、住、お嫁さんの心配はさせないから一生懸命頑張って、立派な理容師になってください」と諭した。
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